横浜と神奈川どっちが偉い?
横浜市と神奈川県の微妙な関係をようやく調べた
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1.疑問点
JRの駅だと横浜駅はあっても神奈川駅はない。あるのは東神奈川と、どうも神奈川という地名は横浜に比べ分が悪い。でも、横浜県でなく神奈川県。よくよく見ると横浜というのも、何かの横の浜で、もともとは真ん中ではなく端の存在のようで、なにかがシフトしたことは見えてくる。
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2.調査結果
答えはここにあった。
(1) 「横浜ものがたり」さん
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yokoyama/frmmapy1.html
こちらの情報によると、、、
幕末の時代、アメリカは「神奈川湊を開放しろ」と圧力をかけてきたそうでございます。 しかし、神奈川湊より少しでも江戸から遠ざけるために横浜港を作り、そこが神奈川湊であるとアメリカを騙したと言われております。 横浜を神奈川と騙したいじょう、横浜県にはできずに神奈川県となったわけでございます。
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横浜は何の横なのかもちゃんと説明してくださってます。
何故、横浜というのかと申しますと、在る物の横が浜だったのでございます。 その在る物とは何か、といいますと、それは弁天堂というお堂があったのでございます。 いまもその名残りで、関内と馬車道の間に「弁天通り」とか「弁天町」という地名が残っております。
(2)「ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源」さん
ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源によれば
c 横浜(よこはま)・州乾(しゅうかん)湊・野毛(のげ)・本牧(ほんもく)・根岸(ねぎし)・磯子(いそご)・保土ヶ谷(ほどがや) 袖ヶ浦の南、東海道の東に遠く離れて、大岡(おおおか)川が流入する入江の開口部を北に延びて横にさえぎる砂嘴があり、そこに小さな農漁村であった横浜(よこはま)村がありました。砂嘴の内側に州乾(しゅうかん)湊があり、その北には山を背負った畑地帯の野毛(のげ)村があり、海岸では幕末のころ牡蛎の養殖が行われていました。州乾湊は、船がかりの良い入江でしたが、次第に乾陸、埋立てが進み、安政6(1859)年神奈川(横浜)開港以来、神奈川から横浜の海岸は全くその様相を変えています。 横浜の南には、本牧(ほんもく)岬が、その南には根岸(ねぎし)、磯子(いそご)の海岸が続いています。 この「よこはま」、「しゅうかん」、「のげ」、「ほんもく」、「ねぎし」、「いそご」、「ほどがや」は、マオリ語の 「イホ・カウ・ハマ」、IHO-KAU-HAMA(iho=to intensify KAU etc.;kau=swim,wade across;hama=faded,light-coloured)、「(河口、河口の三角州などの前を)横にさえぎる(徐々に海の中へ消えて行く=丈の低い)砂浜(砂州がある場所)」(「イホ」のH音が脱落して「イオ」から「ヨ」と、「カウ」のAU音がO音に変化して「コ」となった)
なんとなく納得。でも、今の横浜しか知らぬ物には砂嘴があったことなぞ想像もできない。今のこっている汽車道とかがそうなのかなぁ。と思ってぐぐってみるとこんな説明にであった。関内全部砂嘴(砂浜)だったんだろうと勝手に納得しよう。
http://www.harashobo.co.jp/online-shimada/shukan/backnumber/index45.html